「ガリ版刷り教科書」とは
占領期の沖縄には、沖縄独自の教科書が存在しました。その教科書は謄写版であったことから、「ガリ版刷り教科書」と称されました。ガリ版刷り教科書は、手書きで書いたものをガリ切りして、藁半紙のような粗雑な紙に印刷されたものを教員が手作業で綴じたものでした。
ガリ版刷り教科書の一例(「読み方」)は、こちらで確認できます。
ガリ版刷り教科書は、1945年8月、米軍政府の指示で教科書編纂所が設置されて作成が始まりました。この教科書は、1946年4月に布かれた沖縄戦後初の教育制度である初等学校8年、高等学校4年からなる八・四制(沖縄群島では、1946年4月~1948年3月)下で、正規の教科書として使われていました。
沖縄群島では、1948年4月に六・三・三制へ変更されます。同年6月に日本本土の教科書が輸入され、日本の教科書が沖縄の学校現場にいきわたる中で、その役割を終えました。よって、1945年~1948年頃まで沖縄の学校現場で使われていた教科書と言えます。
なお、当時、奄美群島、沖縄群島、宮古群島、八重山群島と4つに分立していたので、それぞれの群島で諸制度が若干異なっていました。教育も例外ではありません。状況が複雑なので、ここでは沖縄群島のことを中心に書きたいと思います。
なぜ沖縄独自の教科書がつくられたのか
沖縄の戦後教育を始めるにあたり、学校の再開の次に取り組まれたのが教科書の作成でした。教科書をつくることは、教育の再開に欠かせなかったのです。
沖縄戦で戦前の日本の教科書はほとんど焼け残りませんでしたが、仮にそれがあったとしても日本の教科書を使うことが禁止されていました。なぜなら、米軍の対沖縄占領教育政策方針の一つに、「日本との切り離し」があったからです。これに加えて、沖縄の独自性を尊重し、新たな沖縄を建設していこうとする精神(姿勢)である「沖縄の道」が重視されていました。よって、日本の教科書は使用できず、沖縄独自で作成する沖縄固有の教科書を作る必要があったのです。
1945年8月、米軍政府側が沖縄側に対沖縄占領教育政策方針に則り指令を出し、教科書の編纂が始まりました。当時教科書編修課長だった仲宗根政善や、編修課の喜久里真秀の回想によると、
- 日本的な教材、軍国主義教材、超国家主義的教材はダメ(仲宗根)
- 軍国主義教材、日本だけが神国であるという教材、日本だけが一番強い国であるという教材をカットしてくれという口頭指令(喜久里)
とのことです。
ガリ版刷り教科書の編纂方針とその種類
教科書編纂方針
ガリ版刷り教科書を作成するにあたり、その編纂方針が定められました。「初等学校教科書編纂方針」(1946年)と「編纂方針の具体化」(1946年)に示されました。その内容を整理すると以下の通りです。
- 臨時の教科書
- 最低限度の知識・技能を授ける
- 沖縄の向上を図り、新沖縄建設に邁進(=沖縄の道)
- 米国に対する理解を深くする
- 科学的教材を多くする
- ローマ字を採用
- 英語を課す
- 漢字を制限
この方針に則り、教科書作成が行われました。「最低限度の知識・技能を授ける」ということから、読方(国語と言ってはいけなかったため、この科目名に)、算数の教科書から編集が開始したと考えられます。
教科書の種類
ガリ版刷り教科書は、八・四制下の正規の教科書だったことから、八・四制の科目に合わせて作成された形跡がうかがえます。八・四制下の科目は以下の通りです。
➀初等学校(8年間の初等教育機関)
- 人文科(読方、公民、歴史、地理、英語)
- 理数科(算数、理科)
- 芸能科(音楽、図画、工作)
- 体育科(体錬、衛生)
- 生産科(農業、水産、工業、商業)
- 家政科(裁縫、家事)
➁高等学校(4年間の中等教育機関)
- 人文科(公民、文学、歴史、地理、英語)
- 理数科(算数、物象・生物)
- 体育科(体錬、衛生)
- 芸能科(音楽、図画、工作)
- 生産科(農業、水産、工業、商業)
- 家政科(被服、家事)
(ガリ版刷り教科書の例は、拙著『占領下沖縄の学校教育』113~120頁参照)
マーカーを付した科目が、教科書の現存または作成されたことが確認できる科目です。これについては、先行研究、研究者・研究機関の情報や協力を得ながら、10年ほどかけて沖縄で調査してわかりました(2020年現在)。
これらの教科書は大変貴重で、各科目全学年がそろっていない科目がほとんどです。しかも、各学年1冊しかないものが多いのです。つまり、世界に1冊しか残されていない教科書が多いということです。
また、そのほとんどが初等学校で、高等学校のものは数冊しか確認できません。
現物がわずかしか残されていないのは、
➀プリントされて各学校に配布され、各学校で綴じていたため散逸しやすかった。
➁数年しか使用されなかった臨時の教科書のため、不要になったら破棄された可能性がある。
③そもそも数多く作成されなかった。
の3点が考えられます。
当時の学校日誌や回想によると、子どもたちは先生が教科書の内容を黒板に書いたものをノートに写すのが関の山で、そのノートすら配給されなかったり、教科書があっても何人かで一緒に見ていたようです。いずれにしても十分な数がなく、教員が持っていたかどうかくらいだったかもしれません。
ガリ版刷り教科書について、詳しく知るには
ガリ版刷り教科書に関する研究は、残念ながらあまり進んでいません。ガリ版刷り教科書に関するまとまった著書は、以下の2冊です。
- 吉田裕久『占領下沖縄・奄美国語教科書研究』風間書房、2010年。
- 萩原真美『占領下沖縄の学校教育―沖縄の社会科成立過程にみる教育制度・教科書・教育課程』六花出版、2021年。
吉田裕久氏の著書は国語のガリ版刷り教科書について、拙著は、公民・歴史・地理のガリ版刷り教科書について書かれたものです。なお、英語のガリ版刷り教科書については論文がありますが、ほかの教科については、まだ研究が進んでいません。
ガリ版刷り教科書を分析するには、その教科の知識だけでなく、戦前および戦後教育改革期の日本の教育制度に関する知識も必要なので、難航していると言えます。ぜひ関心がある方に、まだ手つかずの教科について研究していただければと思っています。
ガリ版刷り教科書はどこで見ることができるのか
このように大変貴重な教科書なのですが、ガリ版刷り教科書はどこで見ることができるのでしょうか。いくつかご紹介したいと思います。
那覇市歴史博物館
那覇市歴史博物館は、ガリ版刷り教科書の複製または現物が最も多く所蔵されている機関です。現物または複製を閲覧したい場合は、閲覧の申請手続きをする必要があります。同館のデジタルミュージアムでも資料の一部は確認できます。
デジタルミュージアムの「写真資料」のタブを開き、「教科書」と入れて検索するといくつかヒットします。ただし、いわゆるガリ版刷り教科書ではないものも含まれていますので、ご注意ください。
沖縄県立図書館
沖縄県立図書館には、現物または複製が所蔵されています。ただし、蔵書検索で「ガリ版刷り教科書」で検索してもヒットしません。現物または複製自体は、ガリ版刷り教科書の教科書名や発行機関等の情報から探す必要があります。
ガリ版刷り教科書のレプリカである、月刊沖縄社編『激動の沖縄百年』6巻 教科書復刻版(月刊沖縄社、1981年)が所蔵されているので、まずはそれを手に取ってみるといいと思います。
うるま市立石川歴史民俗資料館
うるま市立石川歴史民俗資料館では、戦後初期の物資料や写真が展示されています。展示物のなかにガリ版刷り教科書もあります(少なくとも私が行った時(2017年頃)はありました)。それを手に取ってみたい場合は、事前に申請する必要があると思います。期間に余裕をもって申請手続きをした方がいいと思います。
ガリ版刷り教科書は、沖縄戦の直後、いかに子どもたちを教育しようとしたか、教育を通じていかに復興しようとしたかという教育者たちの思いが伝わってくる貴重な資料です。戦後直後の沖縄についてご関心がある方には、ぜひ閲覧していただくといいのではないかと思っています。